倦怠感の強度と自殺 季節性鬱

季節性鬱です。

 

親元を離れた19歳から始まり、一番辛かったときが強度10とすると、現在は3のレベルです。

 

強度10のときはどんなだったかというと、ホームに立っていると電車に吸い込まれる。

 

でもそれって肉体的な「死にたい」って欲望と少し違うんです。ただ、消えたい。終わりにしたい。なんでもいいんです、この苦しみが終われば。

 

面白いことに、本気で肉体的に命を絶つってのは、それなりに計画も勇気も覚悟も体力も必要で、寝たきりになったら、なかなか自殺はできません。無気力でも同じ。

 

以前上司が、言っていた。

「昔の田舎で確実に死ぬとしたら、井戸に飛び込むしかなかった。

縄だって紐だって手作りだから、人を支えるほどしっかりしたものはあまりない。

飛び降りて死ねるような高所だって無い」

なるほどと思いました。寿命で無い限り、物理的な環境が揃わないと、死ねないんです。

どんなときでも、体は生きようとします、生命維持活動を続けます。

念じるだけでは死ねない。

こんなに辛くて、朝起きたら死んでいたらいいのに、っていう辛さを経験した方は多いのではないかと思いますが、それが出来てたら私も今ここに居ないと思います。

 

辛い、消えたい、ただ終わりにしたい。そういう消極的な自殺願望をコートのように常に身に纏っているとき、

 

前に倒れればなにもかも一瞬で終わるっていう駅のホームってのは、願ったり適ったりなんです。(それがどのくらい迷惑な行為なのか、その状態にいると、考える余地が無い)

 

ホームから線路に倒れ込んでする自殺よりも、

わざわざ踏み切りをくぐって線路に立ったり、

フェンスを乗り越えて線路に立ったりする自殺のほうが、

一瞬でも死ぬ気力が強いような気がします。

 

これはホームドアをつけると自殺が激減するのによく顕れていて、

体力的にあそこを一瞬でよじ登ってまで本気で死にに行く人ってのはなかなかいない。

 

あれを一瞬でよじ登ってうまく死ねるとしたら、怒りの強い復習的な意味を兼ねた自殺だと思います。腕の筋肉、体幹、股関節の柔軟性、瞬発力。

私だったら先に筋トレしなくちゃいけない。達成できる体力までいけたら、もう死にたくなくなっているかも知れません。

 

朝目が覚めたときの感じで鬱の強度がわかる。

まず設定時刻に起きられない。

アラームが棘のついた枝のように体に刺さる。

体が塗れた砂袋のように重くて、起き上がれない。

 

でも私は昭和世代で、先輩の言うことは絶対で有無を言わさず従わなくてはいけなかったし、先生の暴力は日常茶飯事の中に育ったものですから、相手が不快になるような予定だったら、絶対起きます。

だから、遅刻したらもろに暴力をうけるような環境だったら、朝起きられないってのは無いかも。

以前86歳のお客様に

「空襲で家が燃えてるとき、欝で動けないとか、言ってられないでしょう。命の危険が無い平和な人がなるのよ、鬱って」

と言われたことがあります。本当かもしれません。

 

わたしは約束事を遂行しないと暴力がある環境だったので、今も起きられるのかも。

でも多分自衛隊や運動部のような、暴力で遅刻を罰するような組織にいたら、なんとしてでも起きるのではないかと思います。

 

そんな訳で私も、匍匐前進をしてでも、起きます。

 

自分の顔を見ると吐きそうな嫌悪感しかなくても、化粧します。

そのとき、ずっと

「よいしょ、よいしょ、がんばれ、がんばれ、がんばれ、がんばれ」

と掛け声を掛けながら、頑張ります。

 

ぶっさいくな顔に(普通です)化粧して、醜い体に何も似合わない服を着る(スタイル良くはないけど、まあ普通です)、それで死体を引きずるように出かけます。

 

道を歩いていても色を感じず、どの人もアホか、苦労知らずの能無しに見えたりします。

 

でも、約束の場所で人と会うと、そのときは元気になります。

人と向き合って、その人が私を受け入れてくれるとき、私はある程度正常に戻れるのです。(別れた瞬間またグレーになる)

 

多分この時期、私の中の「良い判定」比率の「他人の態度によるもの」が極端に増えているからだと思います。

 

体脂肪、年齢、収入、将来性、容姿、いくらの物件に住んでいるか、来ている服の値段、3サイズ、体重、空いている時間をどう使っているか

 

全ての事象が私に繰り返し「無能」「駄目」とつぶやき続け、無能と駄目の雨の中でどんどん体は無能と駄目を吸い込んでいく。

 

強度10のときはそんな感じでした。

私の場合は幼少期からの抑圧、母の呪文、他動性やHSC(過剰な多感)、などによる生きにくさなどが原因です。 

 

2014年3月13日に東京地裁で行われた「黒子のバスケ」脅迫事件初公判で、渡辺博史被告が読み上げた冒頭意見陳述の全文、あれに非常に良く似ています。あまりに無力と駄目の中にいると、コンクリの間から植物が生えるように、独特のファンタジーが自分のプライドだけを非常に高いところにもっていってしまう。

 

そのファンタジーと現実のギャップが、容赦無く自分を刺していく。

 

(あの文章には驚愕しました。彼はあそこまで書けるのだから、なんとかあの力を集中させて欲しい)

 

なんとかここまで来ました。自営してます。

人からは幸せそうだと言われることもあります。

 

今辛い方は、休んで欲しい。

私今50歳です。長かったです。

欝は子どもが生まれても治りません。

骨の髄まで沁みついた劣等感は環境では改善しません。

お金も、時間もかかり、世の中は不公平です。

 

でもこうして生きているだけで、私の意志も、あなたの意思も、強いんだと思います。

私達は、有名になれません、こんな心のバランスでは1人で大きな仕事は成し遂げられません。

 

ミリオネラーになれません。宇宙にも行けません。一般的な家庭も持てないかも。

 

でも私達の適正なサイズの生活が、きっとあって、

それは庶民的でケチ臭くて、市井すぎて情けないかも知れないけど、

貧困層負け組かも知れないけど、

その中で少しでも「ああ、綺麗だな」「気持ちいいな」ということを探して、少しずつ人生に色をつけていく。

 

駄目なときは寝る。

私は今でも、一日廃人のように寝ているときもあります。

まわりは朝6時から筋トレして掃除して語学やって犬の散歩して旅行してお洒落して、幸せそう。

 

いいんです。

いいんですってば。

 

体に聞いて。とにかく体に。

体が「動けない」っていったら、動けないんです。

 

地上に居る限り、体が絶対、体が優先。

だって、願いだけでは命さえ終わらせられないのですから。

 

どんなに凄い人がどんな力で何を引き寄せたって、トシとったら、死ぬんですから。

でも、この感覚がどうしてもわからない人ってのが、どうしても、いる。

彼らは本当にわからないから、仕方ないんです。

理由のみつからない無気力とか、無いんです。

そういう人は、やっぱり冷ややかな目をします。

 

彼らは、平和で、恵まれていて、ある意味大味で馬鹿です。

だからといって私たちが馬鹿じゃないということじゃなくて、

全然わからないって、つまりこういうこと

「見たことのないものを描いてください」

見たことのないものって、描けないんです。

鬱を全く分からない人って、つまりそのくらいわからないんです。

 

気持ちで何とかなるとしか、結論づけられない。

彼らのことは気にせず、復活した人の話を聞きましょう。

 

お互い頑張ろうね!!!!