世界はそれを愛と呼ぶんだぜ

最近色々なヤマがあって、10年一緒に暮らして来た彼と、これ以上はもう無理なんじゃないか、と思った。

もう駄目だ、価値観が合わなすぎる、と思った。

そんな折友達に相談したら、その友達も同じような状況に陥っていた。

価値観の違い。私達は20代じゃないから、ここで俎板にのせられる「価値観」は割りと本質的なものになる。

食べ物の好みとか、音楽の好みとか、休日の過ごし方ではなく、

パートナーとどのくらいの密度で、どのように生活を組み立て、どうなっていきたいか、そういう重い価値観の違いだ。

彼女の話を聞いているうち、思い当たることがあった。

口には出さないけどわかる。私達は、なんとなく、パートナーが幸せを運んでくるものだと思っている。

今は運んでこなくても、なんとなくそのうち、運んできてくれるものだと思っている。

それは自分が育った家族のあり方の名残り。

なのでいつまでも運んで来る気配の無いパートナーには、頼りなさを感じてしまう。

「男に頼らなくても良いように」私達はそう教育された。

でも実際、身近な女性でそのような生き方をしている人は、あまり幸せそうに見えない人が多い。

男性の稼ぎ、男性が持つ「稼ぎ」に対する責任感。

そこにちょっと寄りかかりながら、男性を支え、さらに社会に向けて自分の長所を発揮できることを認めてくれる、そういうパートナーを実は理想としている。

そんな生半可な教育を受け、生半可な稼ぎをしながら、「価値観」の違いにぶつかると、調子のいい話だが教育のほうが勝ってしまう。

つまり「もっと価値観の合う人とやってゆきたい」にたどり着く訳だ。

それ、いつまで繰り返すのか。

そもそも、それほどの価値観がぴったり合致する人なんて、いるのか?

それに本人そのものが変化してゆくんだ、当然価値観も変わって来る。

さらにまだ知らない価値観も沢山ある。

子供のしつけや教育、転勤、親族や親の介護、事故、予期せぬお金の問題。

そんなことが人生に展開してきたとき、自分がどうしたいのか、どこまでできるのか、相手にどうして欲しいのか、本番になってみないとわからない。わからないじゃないか。

順序が逆だ。

出来上がった価値観を取捨選択してゆくんじゃない。

価値観は、二人で、作ってゆくものなのだ。

私はどうしてそうしたいのか、あなたはどうして違う考えなのか、お互いがその考えにたどり着くまでのルーツを知り、気持ちに沿って、そしてどうしてゆくのか、二人で歩み寄ってゆく。

そうやってゆかないと、どんな人とも添い遂げられない。

バツイチ同士だと、「結婚だって結局、駄目なときは駄目になるんだから」って、どこか冷めた気持ちがある。

その「しかたないのさ」感が骨に刻まれ、なかなかあの「添い遂げ感」が現実にやってこない。

そこまで考えて私は、安易に別れの選択を手にするのはやめようと思った。

別れ札を持っている限り、話は進まない。

一緒にいる限り、
二人に生じた問題は、一緒にやっつける。

結婚は先になっても、彼と添い遂げようと思った。

添い遂げようと誓ったとき、自分の芯が太くなって、自分に戻って来た。

ぐぐぐぐぐ。(戻って来た音)

その話を、彼にもした。

女から「添い遂げようと思った」なんて言い出したくなかったけど、自分から言おうと思った。

彼も納得した。私は添い遂げます。

昔の恋愛のように、生まれ変わってもまた添い遂げるつもりで、彼と生活を作ってゆこうと思った。

10年目の決意、な訳です。