過去の観察と未来との付き合い方

私は14歳から日記をつけている。殆ど捨ててしまった。

10年日記は、2冊目になる。

以前、友達と日記の話をしたとき、

―私は5年日記をつけてるわ。1年の波がわかって面白いわよね。

と言われたが、何のことか全くわからなかった。
何かの観測をしているのかと思ったのだ。

―ほら、3月の第2週くらいに風邪を引くとか、7月の半ばに遠方より友来るとか、なんか毎年、同じ波があるって、わかってくるじゃない。

―そんなことがわかるの?すごい。そうやって自分の波を観察するのね。知らなかった!!

―金盥さん、それじゃ10年日記の意味ないよ・・・・

そうなのか、10年日記って、そういうことを気づくために書くのか。

そんな話を、昨日家に泊りに来た友達にすると、

―わかります、その話。私は毎年5月に、急に1年分の色々なことが決定しだすってことに去年気づきました。

そのあと、彼女は、静かにこんなことを言った。

―手帳に、1年分の予定を決めちゃって書き込んでおくと、なんだかその通りになるんですよ。書いたことを、忘れちゃってても。あとで手帳を見返すと、驚くんです。全部、予告した通りになってる!って。

―どんなこと書くの?

―6月には新しい資格を探すとか、9月に合格とか、そんなことです。

・・・なんだ、夢がかなう手帳的なやつか。私、そういうの、嫌い。

でも彼女の感じは何か違った。彼女は、手に入れたいものを書いているのではない。「続き」を決めているのだった。

この先どこまでも続く未来のフィルムを一時停止させ、それを指定の月にマチ針で打っているのだった。

未来のフィルムを一時停止した1コマを、ぐうっと手元まで、たぐり寄せる感じ。

へんな気持ちがした。その時、気づいた。
私にはそんな感覚が無い。全く無かった。すごく新鮮だ。

私は何でも「やるだけやったら、あとは結果オーライ」、
出来上がりの時間を決めたことがなかったのだ。

どっちが好きか正しいか、そんなことはどうでも良い。

新鮮だ。体の中がごろごろし出して、お腹の中で大きな石臼が動き出す。

また新しい世界を知った。

未来をたぐりよせて、また放つ。

あらゆる方向に散らばる未来に意図的に血管を伸ばし、血を通わせてゆく、そうやって自分の未来にしてゆくのか。

まさに、生きていくって感じがするな。

船を漕ぐ実感だな。