考えすぎるって何だろう

体が辛くなったとき、必ず言われることがある。

「考えすぎ」


とにかく、私の体を触った人にはもれなく、言われる。

なんでも頭で考えすぎだって。

これについては前も考えたような気がするが、考えすぎって結局、何だろう。

あまり良いことではないということは、それを口に出した人の感じと、私の体調から、わかる。

それに多分、数学やヘブライ語や物理学なんかの、本当に正しく頭を使っている人は、「考えすぎですよ」とは言われない感じがする。

調べてみたのをまとめると

「根深い恐れが芯をなし、ありとあらゆる良く無い想定を頭の中で展開し、動けない状態」

らしい。

でも私はそうでは無いように思う。

でも、「すぎ」ってことは、「過多」なのよね。

どこからが「過多」になるのかしら。

私は電車に乗ってもどこにいても非常にせわしなく頭が動いているんだけど、他の人はそういうとき、視覚も聴覚もチューニングをはずしているのかしら。

色々な細かいことを「よくそんなことまで覚えてるね」って言われるけど、そういうことなのかも知れない。

どうでも良いところまでにいちいちはっきりピントを合わせる。

取捨選択が出来ていないのか。

でも私は、隣の人の鞄のすれとか、靴紐の結び方とか爪の切り方とか、声の感じとか、そういうのを観察するのが好きなのだ。

じゃ、仕方無いのか。考えすぎというよりは、「情報集めすぎ」なのかも知れない。

別にいいような気がする。

でも「情報集め」が好きだったら、ここまで体調が崩れることは無いだろう。

もしかしたらあれかな、こないだ「見える人」が言ってたな。

「あまり良くないことにチューニングを合わせることによって、良く無いものが憑いてくる」って。

それかも知れないな。

それとも、「細かいことにばかりチューニングを合わせているので、大きなこと(環境の変化)に焦点を合わせたり処理をすることが大変に困難」なタイプなのかも知れない。

いつも自分を駄目だなあって思っている点かしら。

なにひとつ、まともに出来たためしが無くて。

問題は、その辺りにある気がしてきた。

また振り出しか。(がっくり)

でも前より、全然良いじゃないか。大丈夫。

私は、人より20年遅れて人生に向かい合ったと思っている。

何ひとつ出来ないと、そんなに自分を責めないでもいいや。

とは書いてみるものの、ここにも嘘の香りがする。

同情心を買って、誰かが救い上げてくれるのを待っているのかも知れない。

いい人ぶっているのかも。

本当は一番ずるいタイプな気がする。

ここから先は今日は考えられない。

多分、この「ずるさ」が、私の何かを守り、何かの本質を突いているのだろう。