幸せは自分で

昨日瘋癲さんと新宿で待ち合わせして、大久保の街を散歩した。
私は中近東のスパイス屋さんで紅茶を買った。

瘋癲さんの家に行く予定が、急遽うちに来ることになった。
瘋癲さんが、髪の毛を染めて欲しいと思い立ったからだ。

瘋癲さんは自分のやりたいことが明確になると、同じ口調でかなりずっしり自分の方向にもっていこうとする。
やりたくないことがあるとこう聞き返す
「来るの?」
「食べたいの?」

わかりやすい。私はだいたい「絶対これがしたい」ということがないので、
「来るの?」
と言われれば「無理しなくていいよ」というし、
「食べたいの?」と言われれば
「どっちでも良いよ」という。

それがいいのか悪いのかわからないけど。

「ああ、ぼくはどうしてこんなに貧乏なんだろう」
瘋癲さんがまた言った。

彼はどうして貧乏が好きなんだろう。
昔の貧しい人が送ってきた限られたささやかな喜びみたいなものを好んで、
何かを差し出して小さく手に入れる静かな光のようなものを喜ぶ。

浜辺を歩いて焼いた貝を食べるなら、バリ島の砂浜でキャンドルを見ながら、ではなくて
葉山や九十九里のひなびたお店を選ぶ。

私はどっちでもよい。
瘋癲さんと一緒なら。

焼いた貝が無くても、砂浜が無くても。
お隣で寄りかかってお話できれば、本当に元気になるんだ。

なんて健気なんでしょう 泣けちゃうわ。

次はもう会えないかもな、って思いながら、
彼のいないときは、彼のことはなるべく考えないようにして、
自分の生活は、自分の感情は、自分の幸せは、
自分だけで、回していけるように、頑張ってるんです、
移り変わっていく一枚の絵のような完成度で、自分の中で連鎖して、まかなって、成長できるように。

また、会えたら、幸せ。

おやすみなさい。