深い諦めに取り組んでいく

私はよく「悩みなんてなさそう」「いつも前向きに生きている」「人生をうまく運んでいる」「思うとおりに生きている」と言われる。

でもけっこう、違う。

以前、見えない世界が見える人に、「考えることが全部ネガティブ」と言われてから、それについてずっと考えていた。

このことを考えると、なんだか頭に来る。怒鳴りたくなる。

もういいじゃない、一生懸命、やってるじゃない。駄目なの?

そんな気持ち。

そしてさっきぼんやりと、立ち上がって来たのが、これ。

「自分は、基本的に、人生に対して物凄く深い諦めの中に生きている」

さらに文字にすると、こんな感じ。

「どうせ因縁深い人生なんでしょ。基本うまくいかないんでしょ。あとはまあ、それなりに努力するから、それで良い方向に向かうなら、向かってみて下さいよ、人生を司る宇宙のパワーさん?かなんか知らんけど」

そこには「だって自分って、こんなもんなんでしょ?人生って、こんなもんなんでしょ?」っていう深く根強い諦めがあって、その中に沢山「自分には無理なんですよ、自分で選択するなんて、開拓するなんて」

という基本概念ががっちり敷かれているのであった。

それは例えると、地球の核みたいに、私の命に根付いていて、もはやもう「もう目一杯やってますよ。がんばる人が報われるなら、誰か証明してみて下さいよ、私を幸せにしてみて下さいよ」的に、非常な怒りを持って私の中心に座っているのだった。

「自分の人生は生まれつき呪われていて、自分はどちみち無力で、その最善の解決策は、強い人に引き上げてもらうことだ」

という私の基本は、常に私を感謝から遠ざけ、自分の人生を自分で開拓する人を別枠に入れて眺め(これはリアルにわかる、私とは違う人、と、はっきり感じているからだ)、絶望の檻の中で筋トレしているような絶望的な状態に私を置く。

私は檻の中で日常のささやかな喜びを見つけて、書き留める。

そういった絶望感は、母から繰り返し言われた、呪文のような刷り込みによるものから来ているのだと思っていたが、考えてゆくと、もっともっと深いもののような気がする。

目標を持てないのも、バカバカしかったからだ。

檻の中で、希望はともかくとして、目標を持つなんて。

ここからは、一生逃げられないと決まっているのに。

逃げられない以上、目標なんてナンセンスだから。

この深い絶望を消してゆくことは、今生を掛けて行う最大の取り組みのような気がする。

そうしたら感謝もできるだろう。もっと世界が美しく見えるだろう。

頭で考えて「楽しい」に分類される作業抜きで、楽しさを感じられることだろう。

2013年の課題はそれにしよう。「深い諦めを打破してゆく」

でも、何を「したら」いいのだろう。

もっと自分に焦点を当てて、自分の気持ち良さを追求してゆこう。

#鬱 #諦め #目標 #ささやかな喜び #ネガティブ