人の記憶に残りたい

母は明るく強い人だ。誰とでも友達になれる。ツアーにも、一人で乗り込む。私の体力と社会性は、母譲り。現在関係は良好だ。

でも私は、母の日に、今まで母に何を送ったか覚えていない。

多分、それらしいものを送っていたのだろう。

今年は、うん、これがいいかも知れないな、と思うものを送った。

例年とは、選ぶときの心が違った。

オレンジから緑のグラデーションに金糸の模様が入った眼鏡ケースだ。

手紙をつけた。

例年は何を書いたか、全く覚えていない。

多分、それらしいことを書いたのだろう、ありがとうとか、なんとか。



23歳で結婚したその日から、姑と夫に振り回され、

家族として、人間として、妻としての意見を全く受け入れてもらえなかった母は、

自らの足の指を潰すように歯を食いしばって自分の生きた魂を潰しながら、

せめて自分の希望を、その全てを、長女の私の成長に注ごうとした。



でも私は生まれながら、頓狂な子だった。



人の家で気に入ったものがあったら、目が眩んで黙って持ってきてしまう。

前の人がピアノのレッスンを受けているときに、空いている鍵盤を弾きに行ってしまう。

何をやらせても、きちんとできない。忘れ物の嵐。落ち着きが無く、何でも思いつきで開始し、計画性が無く、目標も持とうとしない。

何度言っても、言っても、怒っても、体罰を課してもわからない。



そんな訳で、母は私を随分嫌った。独特で歪んだ愛の中で。



私は母に優しくされた記憶が殆ど無い。

私を、顔も髪も体型も含めて、芯から嫌がっていたように思える。「見ているだけでしゃくにさわる」ってよく言われたように思う。

怪我をすると怒られ、視力が落ちると怒られ、親とは、そういうものだと思っていた。



そんな母でも、私が成人してから、時々人に、「長女にはかわいそうなことをした」と言っていたようだ。

母は果たして、本当に私の存在が只、忌々しかったのだろうか。

それを考えたときの大きな逆転材料がある。

それが、母が私に作ってくれたコートだ。

それは私が気に入って、嬉しい気持ちになるコートでは無かったけれど、母は間違いなく、私の体に巻尺を当て、仮縫いをし、アイロンや印付けや裏地や衿やボタンホールの工程を経て、私の為に仕立ててくれたのだった。

コートのことを思うと、母は私が憎くて嫌いだっただけではないんだ、と思う。


今年の手紙は、「冬になるとお母さんが作ってくれたオレンジ色のコートとデニムのコートを思い出します」と書いた。

そしたら母から、「読んだらうるうるでした」と明るいメールが来た。

うるうるになるような内容じゃないのにな、と思ったが、ふと思いついた。

人は、人の記憶の中にどのように自分が生きているのか、それが大切なのだ。人の記憶の中で、いきいきと生きて、残っていたいのだ。

自分のことが人によって語られることは、特別に嬉しいこと。

正直言って、私はあまり母に対して感謝の気持ちを持っていない。良い記憶も無い。

母もそれは自覚しているのだろう、なぜなら母と私との間にあったものは、失望と、怒りと、嫌悪と、苛立ちと、強制と、金切り声と、暴力が殆どだったから。

その中で私が抽出した「お母さんは忙しい中、私のためにコートを作ってくれました」という事実、これは母にとっても、恐らく唯一と言っても良い愛の証拠なのだと思う。

−私だってあんたを、只憎んでいただけじゃないのよ。

コートを仕立てた事実を、私が差し出したことで、母は確信したのだろう、娘だってわかっている、あのときは仕方なかったんだ、本当は愛だって、十分、あったんだってことを。