満了のお知らせ

私の働いているサロンのオーナーはどうみてもわたしより年下だ。

12年この仕事をしてきたそうだ。オーナーなのに、静かな人だ。

今後、経営側にシフトし、直接人を触る仕事はしないそうだ。

飽きた訳でもなさそうだ。へんにしっくり来なかった。



昨日、施術の合間、話の流れで心的外傷を乗り越える話になった。

起きてしまったことは、受け入れるしかない。

人と関わる社会生活の中で、自分の醜い傷を、そして歪められた実像をどうやって癒し、正しい姿勢を捜し求めてゆくか。

間違って、疎まれて、追い込まれて、誤解されて、人の考え方や自分の有り様に折り合いをつけてゆくしかない、とオーナーは言った。

それは交響楽団の調律を全て独学で仕上げるような仕事だ。

恵まれた環境の人は調律済みの大きな交響楽団を与えられ、いきなり指揮を取りながら人生を泳ぐことができる。

生まれつき、自動的に音楽ホールのオプションまで持っている人もいる。

でもそんなこと、考えても仕方の無いことだ。

自分の曲を、自分の力量で、できるだけ美しく。



最後のお客様が来る前に、なぜか急にその話に戻っていた。

話の流れは思い出せない。気がついたら

−オーナーも子供の頃、色々あったのですか?

と愚直な質問をしていた。

オーナーは書き物をしながら、簡潔に答えた。

−ありましたよ、それはもう、次から次へと、人に言えないくらい。

私達は、その具体的な内容には触れなかった。




ご予約の5分前だ。オーナーは次のお客様を迎えるために立ち上がった。

私は机を見ながら、

−そういう人、私のセラピスト仲間にも多いです。トラウマといってしまっていいのかわからないけど。

と言い、同じ理由で立ち上がった。お客様を二人で迎えるために。

するとオーナーは少し間をあけて、言った。

−そうですね、人を癒すことで自分も癒されてゆく、というような。



それからオーナーは一呼吸おくような間を取り、静かに、こちらから目を離さないまま、言った。

−僕は、それが終わったのです。だからもう人を直接癒す仕事は、しなくても良くなったのです。




オーナーは施術中、殆ど話さない。しかしいつも予約に溢れ、押せ押せだ。

私は自分のお客様が入っていないとき、よくオーナーの施術の様子を見た。

カーテン越しに、一日中黙ってうつぶせのお客様の体に取り組むうつむいたオーナーの姿が、なぜか私はあまり好きではなかった。

そのとき急にわかった。

禊(みそぎ)をしているように見えたから。


私の中で、人を癒す行為を通じて自分自身を癒す作業を静かに繰り返して来たオーナーの努力が、どこまでも、どこまでも、連なった。

12年。

ご予約のお客様が見えた。

オーナーはお客様だけを先に個室にお通しし、タイミングを計ると、自分も入って行った。





誰にも言わず、悲劇に入らず、満了を実感された。

終わったのだ。

この方は人にかけられた悪い作用を自力で癒してゆく為に、

一人でこの作業に向かい合って、作業を終えたのだ。



帰り道、駅から歩きながら、結構、泣いてしまった。

オーナーはもうすぐ経営だけの仕事に移り、立ち上げはじめた別のサロンにシフトする。

私より年下のオーナーだけど、ご縁がいただけて本当に幸福に思った。

私ももっと頑張れると思った。

身近なところに生きていた。繰り返しの力。

時間がかかっても、自分の努力で美しく癒し切り、世界に自分のやさしさを放擲し続ける方が。

動物が、どんなに大きな傷でも、自分の傷を毎日なめ続け、いつか歩きだすように、そして走り出すように。